実務教育、実習教育について(引用)

> 手や目を鍛える実習教育が目標ではなくて、手で触れ得ない、目で見ることのできない〈本質〉に目覚めさせることが(近代的な)実習教育の目標でなければならない
> 単純性の重み(きつさ)を知っているのが〈政治家〉だと言えるかもしれません。おそらく認識の多様性(総体性)が行動の単純さに解消するのに耐えられない者が〈学者〉であり続けるのでしょう
> 現実の〈単純さ〉に紛れて、認識もまた単純でいいというある種の実践主義(実習主義)をさけるべきだ
> 問題は交換が「実際にできる」ことが、ブレーキパッドのことがわかったことにはならないということです。つまり、卒業生は“実”際にはブレーキパッドの交換しかやらないのだから実習でそのことが「できる」ように教えれば、それが「職業教育」「実務教育」だというのはおかしい

BLOG「芦田の毎日」: 退職しました(その2のプレ議論) ― 専門学校に於ける情報リテラシ教育とは何か?
http://www.ashida.info/blog/2008/10/post_301.html



> 〈知性〉自身に〈実際(リアル)〉を感じないようでは勉強したことにならないという原則が貫かれている。それは〈近代社会〉の原則でもある
> 専門学校の授業は実習授業を中心に構成されている。その理由は、二つ。1)大学的な「講義」に耐えられない学生が多い。2)大学的な「講義」に耐えられない教員が多い
> 専門学校生の場合、ノートを取ることの出来る学生は全体の2割もいない。大学の学生もこの傾向は強くなっており、その分純粋な講義がなくなり、講義でも実習でもないPBL(Problem Based Learning)型授業が増えている。PBLは講義授業が成立しない(学生要因のみならず、教員要因でも成立しない)大学教育の衰退のあらわれでしかない
> 400字詰め原稿用紙で500枚くらいの論文(薄めの一冊の書物)が書けないと講義には立てない。要するに教科書を自分で書けるのが大学の教員でなければならない。この場合、〈論文〉というのは、比喩にすぎない。〈書く〉という出来事は、現実の秩序を観念的に圧縮して再構成する能力そのもの
> 〈社会〉から(あるいは実務から)〈学校〉が閉ざされているということではなくて、〈校門〉の内部に世界そのものを遺漏なく反映させようという教育の根源的な欲望を表現している。〈学校〉はそれ自体が〈世界〉でなければならない
> 実習のうまい者がその内容を説明するのに下手であったり、実習の下手な者が逆に説明は上手であったりと逆のことも起こりうる。「できる」ことと「わかる」こととは別なのである(また「できる」目標を「わかる」「知る」目標よりも単純に上に置くことも出来ない)
> 要するに勉強が足りないのだ。1年間の講義授業(4単位)を行うには1000枚くらいの論文が書けなくてはならない

BLOG「芦田の毎日」: 退職しました(その2) ― 「実習の専門学校」をどう考えるのか、どう考えたのか?(単位制の大学と時間制の専門学校、どう違う?)
http://www.ashida.info/blog/2008/10/2_1.html